高野山は主に3つのエリア、「壇上伽藍」「金剛峯寺」「奥之院」に分かれます。「壇上伽藍」は弘法大師空海が開いた真言密教の根本道場。お堂が立ち並び、多くの仏様が祀られています。「金剛峯寺」は高野山真言宗の総本山で、儀式や法会が行われます。「奥之院」は弘法大師信仰の中心地。お大師さまを祀る御廟へと続く参道は千年杉に覆われ、多くの供養塔が立ち並びます。
壇上伽藍DANJO GARAN
真言密教の根本道場として、弘法大師空海が最初に造営に着手された聖域。高野山一山の総本堂である金堂、密教のシンボルである根本大塔、弘法大師が住まわれていた御影堂(みえどう)などが立ち並んでいます。各お堂にはご本尊や諸尊がお祀りされ、お参りすることでそれぞれの仏様とのご縁が結ばれるとされています。また、開創から1200年余の歴史の中で、伽藍の堂塔は不動堂(国宝)を除き、山火事や落雷により幾たびも焼失し、そのたびに再建・復興されてきました。
中⾨ちゅうもん
壇上伽藍の入口を守る門。焼失と再建を繰り返し、現在の中門は8代目。初代は弘法大師の直弟子真然の発願で弘仁10年(819)に建造されたと伝わります。 天保14年(1843)の大火で焼失後、長い間基壇のみの状態でしたが、平成27年(2015)、高野山開創千二百年を機に172年ぶりに再建されました。鎌倉時代の中門を復元・再建したもので、材質には高野檜と高野杉が使われています。 門の守護神として四天王像が東西南北を守っています。そのうち持国天(じこくてん)と多聞天(たもんてん)の二像は焼失を免れた約180年前の像を修復。広目天(こうもくてん)、増長天(ぞうちょうてん)の二像は、現代を代表する仏師松本明慶(まつもとみょうけい)による彫像です。
⾦堂こんどう
伽藍の中央にある高野山一山の総本堂。高野山の主な行事が執り行われます。弘法大師空海により弘仁10年(819)に建立、当初は講堂と呼ばれていました。現在の建物は7度焼失し、昭和7年(1932)に再建されたもの。ご本尊は高村光雲作の阿閦如来(あしゅくにょらい)(一説には薬師如来)で秘仏です。ご本尊を守る脇侍(きょうじ)仏として、不動明王(ふどうみょうおう)、普賢延命菩薩(ふげんえんめいぼさつ)、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)など諸尊が並びます。左右には「両界曼荼羅(りょうかいまんだら)」(*1)が掲げられ、平清盛が自らの額を割った血を混ぜて描かせたことから「血曼荼羅(ちまんだら)」とも呼ばれています(本物は霊宝館にあり、こちらはレプリカです)。 平成27年(2015)、高野山開創千二百年を記念して史上初となるご本尊の特別開帳が行われました。
*1注:大日如来を中心とする密教の教えを絵と図で表したもので、多くの仏様が描かれている。金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅があり、合わせて両界曼荼羅という。
根本⼤塔こんぽんだいとう
真言密教のシンボルとされる、朱塗りの大塔。弘法大師空海により日本で最初に造られた多宝塔(たほうとう)(*2)といわれます。空海と真然の二代にわたり約70年かけて887年頃完成しました。落雷や火災により幾度も焼失し、そのたびに平清盛、豊臣秀吉、徳川家光など時の権力者が再建・復興してきました。現在の塔は、天保14年(1843)の大火で焼失後、昭和12年(1937)に再建されたもの。 内部は、ご本尊の胎蔵大日如来を中心に、周りに金剛界四仏(*3)の如来像が配され、さらにその周りの朱塗りの16本の柱には堂本印象(どうもといんしょう)画伯による十六大菩薩が、四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれています。堂内そのものが曼荼羅を立体的に表現したものといわれます。
*2注:下層部分が方形、上層部分が円形の仏塔
*3注:阿閦如来、宝生(ほうしょう)如来、観自在王(かんじざいおう)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来を金剛界四仏という。
御影堂みえどう
もとは弘法大師空海の持仏堂(じぶつどう)(*4)として建立。のちに大師の十大弟子の一人、真如親王が弘法大師御影像(肖像画)を描き、ご本尊としてお祀りしました。堂内の外陣には十大弟子と二代目真然、高野山復興に尽力した祈親(きしん)(定誉)の12人の肖像が掛けられています。高野山で最重要な聖域として、山内の塔頭(たっちゅう)寺院の僧侶が5日交替で毎日、大師の供養と五穀豊穣、鎮護国家を祈念しています。
本来、堂内に入ることができませんが、近年、旧暦3月21日に行われる「旧正御影供(きゅうしょうみえく)」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許可されています。現在の建物は弘化4年(1847)の再建です。
*4注:日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する建物。
⾦剛峯寺KONGOBUJI
弘法大師空海が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」というお経から命名したという「金剛峯寺」。元来、高野山全体を指しますが、明治以降は一つの寺院の名称ともなります。高野山のほぼ中央、弘法大師の甥で大師の遺志を継いだ真然大徳(しんぜんだいとく)の御住坊のあった地に、文禄2年(1593)、豊臣秀吉が亡母の菩提寺を建立。青巌寺(せいがんじ)と呼ばれ、隣の興山寺(こうざんじ)と合併して、金剛峯寺と改称されました。この寺が高野山真言宗の総本山として、高野山全体の宗務を司っています。金剛峯寺の座主(ざす)(住職)の住まいでもあります。
主殿しゅでん
金剛峯寺の中心にある東西60m、南北70mの広大な建物。大玄関は正門とともに天皇・皇族や高野山の重職のみが出入りできました。弘法大師をお祀りする持仏間(じぶつま)と大広間、天皇・上皇の謁見や応接に使われた上段の間、天皇随行者が寝ずの番をする稚児(ちご)の間(武者隠しの間)などがあります。たび重なる火災により焼失を繰り返し、現在の建物は文久3年(1863)に再建されたもの。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根には防火用水として「天水樋(てんすいおけ)」が置かれています。
令和2年(2020)、千住博画伯により奉納された、障屏画「断崖図」が茶の間に、ふすま絵「瀧図」が囲炉裏の間にあります。
⼤広間と持仏間おおひろまとじぶつま
松と鶴のふすま絵に彩られた大広間、その正面奥に持仏間があり、ご本尊として弘法大師坐像(秘仏)をお祀りしています。大師坐像は延宝8年(1680)、検校(けんぎょう)文啓の指示で製作されました。両側には梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)、それを囲むように歴代天皇の御尊儀(位牌)や歴代座主の位牌が祀られています。大広間では重要な儀式や法会が行われます。松と鶴のふすま絵は雪舟四代目の雲谷等益(うんこくとうえき)の同門、斉藤等室(さいとうとうしつ)の筆。広間に続く梅の間にも、同絵師による梅月流水(ばいげつりゅうすい)と呼ばれるふすま絵があります。
柳の間やなぎのま
柳と鷺の描かれたふすま絵がある「柳の間」。ふすま絵の作者は江戸末期の絵師、狩野探齋(かのうたんさい)です。この部屋で、文禄4年(1595)、関白秀次(ひでつぐ)が自害したことから「秀次自刃(じしん)の間」とも呼ばれています(建物は当時のものではなく再建)。秀次は豊臣秀吉の甥で、子がなかった秀吉の養子となり二代目関白の地位を得ます。ところが、秀吉に実子秀頼が生まれると疎んじられ、秀次は次第に生活や行動が荒れ「殺生関白」と呼ばれるほどに。それが秀吉の怒りを買い、秀次は高野山に逃げ、出家します。しかし、一山あげての助命嘆願も虚しく、自害に追い込まれました。28歳の若さでした。金剛峯寺には秀次の霊牌が安置されています。
蟠⿓庭ばんりゅうてい
2,340㎡(約707坪)の日本最大級の石庭です。蟠龍とは、まだ天に昇らず、地(高野山)にとどまっている龍のこと。京都の白川砂を敷き詰め雲海に見立て、弘法大師生誕の地、四国の青い花崗岩140個を用いて龍を表しています。雲海の中で雄雌一対の龍が向かい合い、頭を持ち上げて勅使(ちょくし)門より入る人を招き、貴賓室である奥殿を囲み守っているように表現されています。
昭和59年(1984)、弘法大師御入定千百五十年御遠忌(ごおんき)大法会の際、新別殿とともに作庭されました。
奥之院OKUNOIN
壇上伽藍と並ぶ、高野山二大聖地のひとつ。弘法大師空海の御廟(ごびょう)がある場所です。御廟とは高貴な人の霊を祀るところ。 承和2年(853)、62歳の大師は奥之院にご入定。すなわち、生きたまま宗教的な瞑想に入られたと伝わります。以来1200年もの間、大師は今も生き続け人々を救済し続けているという信仰が続いています。奥之院参道にはお大師様に帰依(きえ)した多くの人々の供養塔や墓石が立ち並び、日本人の総菩提所ともいわれています。
奥之院参道おくのいんさんどう
一の橋から弘法大師を祀る御廟(ごびょう)まで約2km、千年杉の茂る参道には、苔むした供養塔や墓石が立ち並び、その数20万基を超えるといわれます。皇室、貴族関係をはじめ、法然、親鸞などの各宗派の開祖、上杉謙信、武田信玄、織田信長、伊達政宗、豊臣一族などの戦国武将、江戸時代の大名、文人、庶民にいたる様々な階層の人々が、宗派や身分を超えてお大師様に寄り添っています。芭蕉や与謝野晶子、高浜虚子、山口誓子など著名な歌人の碑もあります。
⽔向地蔵みずむけじぞう
御廟橋のたもと、玉川沿いに地蔵菩薩はじめ、不動明王(ふどうみょうおう)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、観音菩薩(かんのんぼさつ)など諸尊が立ち並んでいます。参詣者が御廟にお参りする前に、こちらの仏様に水を手(た)向ける(捧げる)風習があります。水を手向けることで、先祖や亡くなった人の冥福を祈ったり、御廟へお参りする前に自らの心身の穢(けが)れを清めるという意味もあります。手向けかたは、水盤の水を柄杓(ひしゃく)ですくい、仏様の足もとに静かにかけます。かつては橋がなく、はきものを脱いで川に入り、禊(みそぎ)をして御廟にお参りしていました。
御廟橋ごびょうばし
奥之院で最も御廟に近い橋。入り口の「一の橋」、参道中ほどの「中の橋」を渡ると、3つめの橋がこの御廟橋です。「無明(むみょう)の橋(煩悩をとる橋)」とも呼ばれています。この橋を渡るとお大師様の御廟の霊域。参拝者はこの橋の前で身なりを正し、清らかな気持ちで一礼して御廟へ向かい、お参りが終わって帰る際も同じ場所で一礼します。こちらで弘法大師が出迎え、見送りをしてくださると伝わっています。 橋板は36枚で、橋全体を1として合計37とし、金剛界37尊を表しています。これは奥之院が金剛界の浄土であるとの信仰に基づいています。
燈籠堂とうろうどう
万を超える献燈籠が吊された大きな燈籠堂。弘法大師御廟の拝殿として二代目真然(しんぜん)が建立し、治安3年(1023)、藤原道長によりほぼ現在の大きさの燈籠堂となりました。現在の建物は昭和39年(1964)に改修されたものです。 長和5年(1016)、孝女お照が自らの髪を売り、両親の菩提のために献じた「貧女の一燈」、寛治2年(1033)、白河上皇献燈の「白河燈」は、千年来燃え続けています。昭和天皇から献上された「昭和燈」と合わせて、常明燈と呼ばれています。 堂内正面には醍醐(だいご)天皇から賜った「弘法大師」の諡号(しごう)(贈り名)額、両側には十大弟子と真然、祈親(きしん)上人定誉(じょうよ)、12名の肖像が掲げられています。
⾼野⼭ 霊宝館 KOYASAN REIHOKAN
高野山真言宗総本山金剛峯寺を始めとする、高野山の寺院に伝わる仏像や仏画など貴重な文化遺産を保存管理し、展示公開するために大正10年(1921)に開設された博物館相当施設です。 国宝や重要文化財などの指定文化財約2万8000点を含む、約10万点もの絵画や彫刻、工芸品、書跡、考古資料などを収蔵しています。季節ごとの特別展示や企画展示、平常展示などで順次公開が行われます。
「高野山と世界遺産」
前期:10月19日(土)~ 11月24日(日)
後期:11月26日(火)~ 1月13日(月・祝)
※12月28日(土)~ 1月4日(土)は休館日となります。
高野山デジタルミュージアム KOYASAN DIGITALMUSEUM
高野山の文化資源の魅力を伝えるVRコンテンツを、VRシアターの250インチの大スクリーンと高輝度プロジェクター、7.1chサラウンドで迫力たっぷりに上演、鑑賞できる文化複合施設。 併設のカフェ、高野山カフェ雫では猿田彦珈琲プロデュースのオリジナルコーヒー・高野山ブレンドや地域産品を盛り込んだ高野山精進カレーなどのフードとスイーツなどを味わうことができます。店内には地域生産者による高野山ならではのみやげが揃い、ショッピングを楽しむことができます。
12~2月:不定休